
賃貸の契約書や重要事項説明書を読んでいると、「造作買取請求権は行使しない」という一文が特約欄に書かれているのを目にすることがあります。
そもそも造作買取請求権とは、入居者が貸主の承諾を得て取り付けた設備を、退去時に貸主へ時価で買い取らせることができる権利です。借地借家法33条に定められており、名前だけ聞くと入居者にとって有利な権利のように聞こえます。
ところが現場の実態はまったく違います。退去立会いを1,000件超こなしてきた現役店長の経験から言えば、この権利が実際に行使されたケースは一度もありません。
理由は3つあって、特約で権利が排除されていること、家庭用エアコンはそもそも「造作」に当たらないという判例があること、仮に権利があっても買取価格の「時価」がほぼゼロに近いことです。
この記事では、造作買取請求権の正確な定義と、似た概念である必要費・有益費との違いを整理したうえで、「なぜ実質的に使えないのか」を現場目線で解説します。エアコンを自費設置して退去する際に実務上どうなるかも含めて、知っておくべきことをすべて書いています。
ぜひ最後までお読みください。
造作買取請求権とは何か——借地借家法33条の定義と3つの要件
「造作買取請求権」という言葉を契約書の特約欄で目にしたとき、多くの方が「自分には関係ない話かな」と流してしまうでしょう。
ただ、この権利の意味と限界を正確に理解しておくことは、エアコンを自費で設置したいときや、入居中に何かを取り付けたいと考えたときに確実に役立ちます。
また、この権利と混同されやすい「必要費」「有益費」という概念を先に整理しておかないと、退去時に「どの根拠で何を請求できるか」という判断ができません。難しそうに聞こえるかもしれませんが、順番に読んでいけば必ず理解できます。まずは定義から確認していきましょう。
「造作」の法律上の定義——3つの要件を同時に満たすもの
造作買取請求権の対象となる「造作」とは、次の3つの要件をすべて満たすものを指します。最高裁昭和29年3月11日判決によって示された解釈が現在も基準となっており、この3要件のいずれかを欠けば「造作」には当たりません。
第一に、建物に附加されたものであること。簡単に取り外せる家具や家電ではなく、建物と一体化した状態で設置されているものです。第二に、入居者の所有に属するものであること。貸主が最初から設置した設備はそもそも貸主の所有物なので対象外です。第三に、建物の使用に客観的便益を与えるものであること。入居者が特殊な目的のためだけに取り付けた設備は含まれません。
畳・建具・ふすまといった伝統的な建具類がこの権利の想定対象であり、現代の賃貸住宅でよく問題になるエアコンについては、後述のように「造作に当たらない」という判例が出ています。
必要費・有益費・造作買取請求権|「自費で手を加えたとき」の3つの概念を整理する
入居者が自費で物件に何かをしたとき、退去時に費用を請求できる根拠として法律上3つの概念があります。名前が似ているように感じるかもしれませんが、内容も使える場面もまったく異なります。それぞれの違いを先に把握しておくと、この記事の後半がぐっと読みやすくなります。
必要費(民法608条1項)は、物件の現状を維持するために必要な修繕費用のことです。雨漏りを自費で修繕した場合などが典型例で、貸主に対して「直ちに」請求できる最も強い権利です。貸主の承諾は不要で、支出した費用の全額を請求できます。
有益費(民法608条2項)は、物件の価値を高める改良のために支出した費用です。必要費と違い、退去時に「支出額」か「物件の増加価値額」のいずれか低い方を請求できますが、裁判所が貸主に相当の猶予期間を認める場合があります。また、特約で排除されていることも多く、実務上は必要費ほど機能しません。
造作買取請求権(借地借家法33条)は、貸主の承諾を得て取り付けた「造作」を、退去時に時価で買い取るよう請求できる権利です。3つの中では最も要件が厳しく、後述のとおり特約で排除されていることが標準化しています。
この記事では「造作買取請求権と何が違うのか」という位置づけの整理にとどめます。
権利行使の前提——「貸主の承諾」が必須であること
造作買取請求権を行使するためには、造作を取り付ける前に貸主の承諾を得ていることが大前提です。無断で取り付けた設備については、そもそもこの権利を行使することができません。
承諾の形式については法律上の定めはなく、口頭でも有効ですが、実務上は「承諾を得た」という証明ができなければ後から争いになります。エアコンを自費で設置したいと考えている場合は、必ず書面またはメールで承諾を得ておくことが重要です。
買取価格は「時価」——この言葉の意味するもの
買取請求ができる場合の価格は「時価」です。購入時の金額や設置工事費ではなく、退去時点での市場価値を指します。
新品で20万円のエアコンを5年使って退去する場合、時価は減価償却が進んだ後の金額であり、機種・年式・状態によっては数千円から1万円台というケースも珍しくありません。「設置費用を回収できる」というイメージとはかけ離れた現実がここにあります。
この権利が賃貸居住用では実質的に使えない3つの理由
造作買取請求権という権利が存在することと、その権利が実際に機能することはまったく別の話です。現場の感覚から言えば、賃貸居住用の物件でこの権利が実際に行使されたケースを一度も経験したことがありません。
それには明確な理由が3つあります。入居者として知識として持っておくべき権利ですが、「これで退去時に費用を回収できる」という期待は、現実とズレています。
理由①——排除特約が全契約書に標準装備されている
1992年の借地借家法改正によって、造作買取請求権は「任意規定」となりました。任意規定とは、当事者間の合意で適用を外すことができる規定のことです。つまり「造作買取請求権を行使しない」という特約に入居者が同意すれば、この権利は最初から存在しないものとして扱われます。
現在の賃貸借契約書には、この排除特約が例外なく盛り込まれています。宅地建物取引業協会が発行する標準ひな形の段階ですでに入っているため、どの管理会社の契約書を見ても同じです。契約書に署名した時点で、入居者はこの権利を放棄したことになっています。
「特約に書いてある意味がわからなかった」という場合でも、有効に成立しているとみなされます。
理由②——家庭用エアコンは「造作」に当たらないという判例
造作買取請求権をめぐるトラブルで最も多く登場するのがエアコンです。ところが、東京地方裁判所の平成22年1月25日判決は「家庭用エアコンは造作に当たらない」と明確に判示しています。
判決の理由は、家庭用エアコンは汎用性があり取り外しが比較的容易であるため、撤去することによって建物の利用価値が著しく減じるものではないということです。造作の3要件のうち「建物の使用に客観的便益を与えるもの」の解釈として、エアコンは建物固有の価値を高める設備ではなく、持ち運びできる動産に近い扱いを受けた形です。
この判決は排除特約がない事案においても「そもそも造作ではない」という結論を出しており、特約の有無にかかわらず家庭用エアコンでの造作買取請求はほぼ通らないということを意味しています。
理由③——「時価」の壁——数年使ったエアコンの買取額はほぼゼロに近い
仮に排除特約がなく、かつエアコンが造作と認められたとしても、買取価格は「時価」です。エアコンの法定耐用年数は6年であり、6年を過ぎると帳簿上の価値はほぼゼロになります。実際の中古市場でも、数年使った家庭用エアコンの買取額は型式・状態によりますが、多くの場合数千円から1万円台の水準です。
設置工事費を含めると数十万円になることもある自費設置のエアコンに対して、退去時に回収できる金額がほぼゼロという現実は、この権利を行使する経済的動機を根本から失わせます。弁護士費用や時間的コストを考えると、主張すること自体が割に合わない構造になっています。
では、エアコンを自費設置した入居者は退去時にどうなるのか
造作買取請求権が実質的に機能しないとわかれば、次の疑問は「自費で設置したエアコンは退去時にどう扱えばいいのか」です。現場で実際に起きていることは、法律の議論からはかなり離れた、もっと実務的な判断のプロセスです。知識として権利を知っておくことと、現場でどう動くかは別の話です。ここからは実務の話をします。
現場で起きていること——「置いていっていいですか?」という交渉の実態
退去立会いの現場でよく出てくるのは、「このエアコン、置いていっていいですか?」というシチュエーションです。法律上の権利行使という形ではなく、入居者側からの「お願い」として持ち出されることがほとんどです。引越し先でエアコンが不要になった・運搬費用がかかる・新居ではサイズが合わないといった事情が多いです。
この申し出を受けて管理会社は貸主に確認し、残置を認めるかどうかを判断します。
認める場合は「サービス設置品(残置物)」として次の入居者に引き継ぐ形になり、故障時の修理費用は次の入居者負担という条件が付くのが一般的です。
また、退去時のエアコン内部洗浄費用だけは退去する入居者に負担してもらうという落とし所になることもあります。残置を認めない場合は持ち帰って処分するか、退去前に取り外して廃棄するかを選ぶことになります。
退去時のエアコンをめぐる費用の詳細は退去時のエアコンクリーニング費用の解説も参考にしてください。
残置を認めるかどうか——貸主の判断軸は「次の募集にプラスかどうか」
貸主がエアコンの残置を認めるかどうかの判断は、法律的な権利関係よりも「次の入居者募集にとってメリットがあるかどうか」という実務的な視点で動いています。
比較的新しく状態のいいエアコンであれば、残置を認めることで「エアコン付き物件」として募集できるため、貸主側にもメリットがあります。一方で、古くて故障リスクが高いエアコンの場合は、残置を断って撤去を求めることの方が貸主にとって合理的です。
入居者の立場からすると、「置いていきたい」という希望が通るかどうかはエアコンのコンディション次第という側面が大きく、法的な権利を持ち出す場面ではありません。
持ち帰るか置いていくか——入居者にとってどちらが得か
自費設置したエアコンを退去時にどう扱うかは、以下の視点で判断するのが実際的です。
まず新居でそのエアコンが使えるなら、持ち帰ることが最も合理的です。取り外し・運搬・再設置の工事費用はかかりますが、新居で使い続ける価値があります。新居で使えない・不要という場合は、残置の交渉を管理会社にしてみる価値はあります。状態がよければ認められる可能性があります。
認められない場合は、退去前に家電量販店や引越し業者のエアコン回収サービスを利用して処分するのが現実的な選択肢です。
退去費用の全体像と合わせて確認しておくと、退去時の費用の見通しが立てやすくなります。
店長の独り言
「エアコン置いて行っていいですか?という交渉は、実務では実はそれなりにあります。
新居にエアコンがすでに設置されているケースもあれば、撤去新設費用に意外とお金がかかることにびっくりして交渉しているケースもあるでしょう。
いずれのケースにおいても、管理会社や貸主へ交渉をしてみてください。お声がけいただければ、貸す側は絶対に真剣に検討をしますので、何も言わずに退去してしまうのは、ちょっともったいないかな、という印象があります。」
造作買取請求権が「使えるケース」——居住用での例外と店舗・事業用の話
「実質的に使えない権利」と説明してきましたが、まったく出番がないわけでもありません。居住用賃貸では超レアケースですが、状況によっては問題になることがあります。また店舗・事業用物件では居住用とは異なる局面が生まれます。知識として押さえておく程度で構いませんが、一通り確認しておきましょう。
居住用では超レアケース——戸建て賃貸での構造物
居住用賃貸でエアコン以外の造作が問題になるのは、戸建て賃貸で入居者が庭にウッドデッキや縁側のような構造物を自作したケースです。
実務上はこの場合でも、使える状態であれば残置を認めて次の入居者に引き継ぐか、劣化や安全上の問題がある場合は撤去費用を負担してもらうという形で決着します。
法律上の造作買取請求権を行使するというよりも、貸主と入居者の実務的な交渉の中で、双方にメリットがあるかどうか、という点に着目して落とし所を見つけるのが現場の現実です。
店舗・事業用賃貸では別の話になる——「居抜き」という考え方
店舗や事業用物件では、造作買取請求権が実際の問題として浮上しやすいです。
業務用の大型空調設備・厨房設備・内装造作といった「建物に固定され、撤去が容易でなく、事業に不可欠な設備」は、居住用の家庭用エアコンとは性質が異なり、「造作」として認められる可能性が上がります。また店舗物件では排除特約が入っていない契約書も存在し、退去時に借主が多額の造作買取を請求してトラブルになるケースも起きています。
ただし現場の実態では、法律の議論より前に別の判断軸が動いています。それが「居抜き」という考え方です。居抜きとは、前のテナントが設置した厨房設備や内装造作をそのままの状態で次のテナントに引き継ぐ賃貸形態のことです。
退去するテナントが造作を撤去せずに貸主へ明け渡し、貸主がその状態のまま次のテナントを募集します。飲食店が退去した物件で厨房設備や換気ダクトがそのまま残っていれば、同業種のテナントにとっては初期投資を大幅に抑えられる大きな魅力になります。
貸主にとっては「撤去させて原状回復費用を取るか、居抜きのまま次の募集を有利にするか」というトレードオフの判断になります。
次の想定テナントが飲食業であれば居抜きにメリットがありますが、物販や美容系であれば飲食向けの造作はむしろ障害になります。造作買取請求権の行使可否とは別の次元で交渉が動くことがほとんどであり、居住用賃貸とは構造がまったく異なります。
事業用物件の契約では金額規模も大きく、契約書の内容や造作の範囲によってトラブルが複雑化しやすいため、契約前に不動産の専門家または弁護士に内容を確認してから判断することをおすすめます。
店長の独り言
「事業用の賃貸物件では、借りる人があれやこれやと内装を施したり、新しく設備を設置することを想定しています。そのため、退去時はどれだけ豪華な内装や設備であっても、全部撤去してくださいね、ということが原則です。
ただし、上述のとおり、せっかく飲食店ができるくらいの什器があるのに撤去するのはもったいない、というときなどは、じゃあ置いていってもらってもいいですよ、という許可を出すこともたまにあります。
居抜き料などの名目で、原状回復費(撤去)よりも安い値段を貸す側へ支払い、新しい借主がその設備を使うとなれば、新しい借主から居抜き費用を払ってもらい、そのお金を返してもらう、なんていうこともあります。
これら、事業用賃貸物件における造作買取(≒居抜き)については、ケースバイケースの要素が非常に大きいので、個別の判断としか言いようがありません。
家主や管理会社と退去が決まったら必要に応じて真摯に交渉することしか方法はありません。その点から言えば、普段から家主や管理会社とコミュニケーションがとれていれば、比較的良い方向へ話が進みやすそうな気はします。
エアコンを自費設置する前に確認しておくべきこと
ここまでの内容を踏まえると、エアコンを自費設置する際に事前に確認しておくべきことはシンプルです。退去時に権利を主張しようとしても実質的に難しいからこそ、設置前の確認が唯一の防衛策になります。
設置前に貸主の承諾を書面でもらう
エアコンを自費で設置する際は、必ず貸主(管理会社)の承諾を書面またはメールで得てください。口頭の承諾は後から「聞いていない」と言われるリスクがあります。承諾を得ておくことで、少なくとも「無断設置による原状回復請求」というリスクを避けられます。
重要事項説明の段階で物件にエアコンがない場合は、設置の可否と退去時の扱いをあらかじめ確認しておくのが理想です。
契約書の特約欄に「造作買取請求権の排除」が書かれているか確認する
ほぼすべての契約書に入っていますが、念のため特約欄を確認してください。排除特約があれば、退去時に買取を求める法的根拠はありません。逆に特約がない場合(稀ですが)は、設置する造作の種類によっては権利行使の余地が生まれる可能性があります。
善管注意義務と合わせて、契約書の特約欄全体を入居前に読んでおくことをすすめます。
退去時の扱いを入居時に決めておくことが最大の防衛策
エアコンを自費設置する前に、「退去時に持ち帰るのか・置いていくことができるのか」を管理会社に確認しておくことが最も実務的な対策です。置いていける場合の条件(清掃費用の負担など)も含めて書面に残しておければ、退去時の交渉がスムーズになります。退去時にあわてて交渉するより、入居時に確認しておく方が圧倒的に有利です。
造作買取は現実的ではないけど、交渉する余地はある
造作買取請求権は借地借家法33条に定められた入居者の権利ですが、賃貸居住用の現場では実質的に機能しません。排除特約が全契約書に標準装備されており、家庭用エアコンは判例上「造作」に当たらず、仮に権利があっても時価はほぼゼロという3つの壁があるためです。
退去立会いを1,000件超経験してきた中で、この権利が実際に行使されたケースは一度もありません。現場で起きているのは「エアコンを置いていっていいですか?」という交渉であり、貸主の判断と次回募集への影響という実務的な視点で決着しています。
エアコンを自費設置したい場合は、設置前の書面による承諾と退去時の扱いの事前確認が唯一の防衛策です。権利の名前を知っていることより、設置前に一言確認しておくことの方が退去時に確実に役立ちます。
この記事を書いた人:不動産会社店長
業界歴20年以上の現役店長。現場の第一線で培った知見を活かし、大手不動産メディアにて累計50本以上の専門記事を執筆中。 業界の表も裏も知り尽くした「不動産のプロ」として、不動産会社の不都合な真実を伝えます。
不動産・建築の専門家として、以下の大手メディアにて2026年現在も継続的に執筆・監修を行っています。
- 東急リバブル(LIVABLE タイムズ):法人・投資家向けのCRE戦略や空き家対策記事を20本以上寄稿
- ハウスコム(暮らしエイト):宅建士の視点から賃貸トラブル解決法を30本以上執筆
- CHINTAI(CHINTAI情報局):現場を知る店長としてお悩み解決記事を連載中
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